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【アラベスク】  第13章 夢と希望と未来



第3節 直向の拗 [2]




 しばし絶句。そして凝視。至近距離から投げかけられる視線。もう息がかかるほどの距離に存在するのが二つの瞳であるという事に気付くまで、どれほどの時間がかかっただろう?
「ひっ! ひやぁぁぁっ!」
 なんともマヌケな声をあげて、美鶴は二歩ほど後ろへ下がる。そうして両手を口にあて、周囲を見渡す。カップルが好奇の視線をチラリと投げる。だが幸い、それほど注目は浴びていないようだ。
 ホッとしながら改めて向かい合う先で、奥二重の瞳が鋭く光った。
「ずいぶん前から居たんだけど」
 気付かなかったのか? とやや呆れ気味。
「小童谷」
 美鶴の声に、小童谷陽翔はニッコリと笑う。
「こんにちは」
「ど、どうしてここに?」
「君に声を掛けるタイミングを見計らっていた」
「わ、私に?」
 途端に訝しむ美鶴の表情にも、小童谷は笑顔を崩さない。
「何よ、こんなところで」
 ここは木塚駅の改札を出たところ。美鶴はこれから電車を乗り換えて自宅へ帰る。
「何か用?」
「用が無ければ、声は掛けないさ」
 言いながら陽翔は一歩踏み込んできた。そうして、逆に一歩下がろうとする美鶴の右の手首を無遠慮に握り掴んだ。
「いたっ」
 思ったよりずっと強いその力に眉を寄せる。そんな相手になど構わずに、陽翔はそのまま美鶴を強引に引き寄せる。そうして顔を近づけ、耳元で囁いた。
「好きな男の情報、知りたいとは思わないか?」
 美鶴は、耳を疑った。





 ようやく見つけた公園の入り口で、聡は一度足を止めた。
 別に会えるとは思っていなかったので、その姿を見かけた時には、嘘だと思った。
 老人は、今日は太極拳はしていなかった。帽子を(かぶ)り、セーターの上にもっこりと上着を着て、キッチリとマフラーまで巻いていた。
 錆びたベンチに腰をかけ、ただボーっとしていた。そう、何もせずにボーっと空を見上げていた。
 聡は、声が掛けられなかった。
 彼には一度しか会ったことがない。真夏の早朝。まだ陽が昇りはじめた頃だっただろうか? すでに蒸し暑く、だから濡れたタオルは心地よかった。

「冷たかろ?」

 黄ばんだ歯を見せて笑う相手を、気味が悪いとは思わなかった。ただ呆気に取られていた。
 身体を動かす老人に力強さは無かった。聡はそう記憶している。だが、ひ弱さも感じなかった。
 なぜ自分は、こんなところへ来てしまったのだろう?
 自分でもワケがわからず、記憶の中の存在とはだいぶ印象の異なった老人の姿を、しばし無言で見つめていた。
 唐突に視線が合った。老人は、聡の姿を見つけると、ニィ〜と歯を見せた。
「また会ったの」
 ボケてはいないようだ。聡はなんとなく会釈をし、フラリと近寄った。
「座りんしゃい」
 断る理由も思い浮かばず、隣に腰掛けた。
「寒くなったの」
「はい」
 そこで会話は途切れた。
 会話らしい会話でもなかったが、聡は何となく場をもたせなければならないような義務感に苛まれ、無理矢理頭を捻くり返した。だが、ほとんど初対面と言ってよい老人との間で弾むような会話の話題になりそうなネタなど、持ち合わせてはいない。それでも必死に考え、ようやくモソリと口を開く。
「あの、すみません」
「はい?」
「手ぬぐいを借りたままで」
「あぁ」
 老人の喉が鳴る。
「かまわんよ」
「必ず返します」
「機会があったらの」
 その言葉になんとなく違和感を感じ、聡は俯いて口を開いた。
「太極拳、もうやってないんですか?」
「やっとるよ」
 あっさりと答え、そうして聡へ向かって黄ばんだ歯を見せた。
「朝だけじゃがの」
「あの、この公園へはよく来るんですか?」
「うーん」
 老人はしばし考え込むような仕草をし、やがて大きく頷く。
「朝以外は、気が向いた時だけじゃ」
 そうしてやおら顎を撫でながら上を向いた。
「で? 何を悩んでいなさる?」
 聡はチラリとだけ顔をあげ、再び俯いた。
 悩んでいるように、見えるのだろうか? まぁ、少なくとも楽しそうには見えないんだろうな。
 中途半端に納得し、このようなどこの誰とも知れない人間に相談すべき内容かどうか、迷った。そもそも、自分は何に悩んでいるのだろう?
 考えるとワケがわからなくなり、質問されたのだから何か答えなければならないだろうと焦り、咄嗟に言葉を出した。
「あの、あなたの夢って、何ですか?」
 目を丸くする相手に、聡は自分の愚かさを呪った。
 俺、何言ってんだ?
 老人はしばし無言で聡を凝視した後、少し嬉しそうに笑った。
「この歳で夢を聞かれるとは思わなんだ」
 そうして、なぜだかうんうんと何度も強く頷いては笑う。笑うと余計に皺が増える。
「夢か。そうじゃの、人間はいくつになっても夢を持つべきじゃ」
「じゃああなたは、何か夢があるんですか?」
 このような、言っちゃ悪いがそれほど先が長いとも思えない人の持つ夢って、何だろう?
 思わず顔をあげて乗り出してしまった聡を、老人は再び無言で凝視する。そうして、今度は少し意地悪そうに笑った。
「差し詰め、進路の悩みといったところか?」
 言葉を失った。だが、ワケがわからないでもない。
 夢があるのか? と問いかけるのは、夢が無くて困っているからか、逆に夢はあるが叶えられそうになくて悩んでいるからか、そのどちらかだろう。老人くらいの年齢の人間にとっては、わかりやすい質問だったのかもしれない。
「学生の悩みと言えば恋の悩みか進路の悩み。もしくは容姿の悩みくらいじゃからの」







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